天華の救済 Q&Aを斬る!

天華の救済についてのデタラメな回答をメッタ斬りにします。

死後の世界と徳積み | 天華の救済(法の華三法行) 福永法源は今

以前から取り上げている「天華の救済法の華三法行福永法源は今」の続きです。今回は「死後の世界と徳積み」という記事です。

110ban.lifework7.info/?p=10 

前回、このブログを書いた人物が天華三法行についてまったく理解していないことを指摘しました。それもそのはずで、「思い」と「観い」の違いについて、まったく理解していないか、あえて理解しようとしないか、理解した上で無視しているか、そのいずれかのようです。

天上界、転生界、地獄界の三つがあり、どこに納まることになるかは、生前の観い(「思い」のこと。この教団ではあえてこの字を充てています)と徳の配分で決まるとしています。

こんなことを言い出すようでは、その他の発言もすべてデタラメです。根幹の部分の理解ができていないと、それを前提としたことが理解できるはずがありません。デタラメに何を積み重ねてもデタラメしか生じないのです。

「思い」と「観い」の違いについては、【天華の救済】公式モバイルサイト - 大自然のルールをご覧ください。

信者のブログから、これに関する説明文を転載します。

自分でも書いているように、引用元が明記されていませんので引用の要件を満たさず、これは転載にあたります。偽物のブログへの転載を著作者が許可するはずもなく(実際確認しましたが許可していないようです)、これは明かな著作権侵害にあたります。

苦しい人生を送って死んだら地獄行きという話

天声では「 人生は苦なり」と示されています。しかし、苦を苦としない自分になることが大切なのです。人生を自分のために使っていれば、苦を苦とする自分になってしまいます。逆に、人生を自分以外の人のために使っていれば、苦を苦としない自分になることができます。

苦を苦とするならマイナスの観いを刻みますし、苦を苦としないのであればプラスの観いを刻むことができます。「天華の救済法の華三法行福永法源は今」を書いている人物は、起きている現象に観いが振り回されることを前提としているように思います。実際、多くの方々がそうです。だからこそ、天と出会って頭を取る必要があるのです。

自分が転生するかどうか、次にどのような人生を歩むかは、その人、本人の魂の選択によって決まるのです。 つまり、もう少し人間という体験を積み重ねたい、前回よりももっと厳しい人生経験をしてみたい、こういう環境・こういう親の元に生まれて人生体験をしてみたい、転生はもういい・・・、こういうことをすべて自分が決めるのです。

死んだあとまで自分の意志が通用するというのは、いかにも頭を取っていない方の考えそうなことです。しかし、意志というのは肉体の一部である頭が作り出しているものです。この人物がいう「魂」が何を意味しているのかわかりませんが、生前の具体的な状況に振り回されるようなものであれば、大した物ではないのでしょう。

この教団の信者たちの言う「どれだけ人を喜ばせたか」という言葉の意味は、「どれだけ人をこの教団に導いて天と出会わせたか」という意味になります。 

人を 天と出会わせるのは大切なことですが、それは「どれだけ人を喜ばせたか」ということの一面でしかありません。もし仮に、「どれだけ人を喜ばせたか」が「どれだけ天と出会わせたか」と等価であれば、すでに天と出会っている人を喜ばせる方法はなくなります。これはもっとも分かりやすい反例です。

あれあれ、この人は、自分が師から騙されていることを自覚しているのでしょうか?

おかしなことをいうものです。実際何が正しいかなど、結果が出てみるまで誰にもわからないのです。自分が本当に天上界におさまるかどうかは、死んでみるまでわかりません。

けれども、正しいかどうか分からないから何もしないというのはおかしいのです。人生というのは、一か八かの賭けのようなものです。賭けた以上は肚をくくってその道を歩むしかありません。親鸞聖人もまさにそうだったのでしょう。

ここまで見てきた印象では、「天華の救済法の華三法行福永法源は今」を書いた人物は、自分の中で特定の宗教観というのがあるのかもしれません。それならそれで、堂々とそれを披瀝し、必要ならその情報発信によって自ら運営するアダルト関連サイトへ導けばよいのです。