天華の救済における戒律の判断基準について。誰が判断し誰が誰を裁くのか、己の「中の」天と「外の」天(ある意味では人為)とのギャップについて。日々、実際に生活を送る場合、戒律に縛られ過ぎて本来ならば自由で大らかな「天」が逆に人間を拘束し、戒律の奴隷状態になりかねない危険性がありそうです。また、それを「苦に刻む」事もありそうです。この辺の見解。
今回も長文の質問です。いつも発想の面白さに感心させられます。
天華の救済における戒律の判断基準について。誰が判断し誰が誰を裁くのか、己の「中の」天と「外の」天(ある意味では人為)とのギャップについて。日々、実際に生活を送る場合、戒律に縛られ過ぎて本来ならば自由で大らかな「天」が逆に人間を拘束し、戒律の奴隷状態になりかねない危険性がありそうです。また、それを「苦に刻む」事もありそうです。この辺の見解。
それでは順に回答していきますが、あくまでも小生の私見であることをお断りしておきます。
昔から天声で「決してやってはならない」と示されてきたのは、苦の観いを刻むことです(戒律とはちょっと違うかもしれませんが...)。もちろん、苦の観いを刻もうとして刻む人はいないのですが、それでもダメだといわれています。
苦の観い(=マイナスの観い)を刻むのは自分があるときです。つまり、自分のない繰り返しができていれば、たとえ頭の感覚で苦しいと感じたとしても、それは苦の観いを刻んでいることにはなりません。
観いは無意識に刻まれるものですから、実際に苦の観いを刻んだかどうかはわかりにくいものです。しかし、のちに自分の生活がどのように変化したかを追跡することで、その人の観いの状態を間接的に知ることはできると思います。
戒律らしい戒律としては、たとえば「超人五戒度」があります。
「超人五戒度」を示す。
一、天声・天意でないことを天声・天意として人に伝えてはならない。
二、人に嘘をついて天に出会わせてはならない。
三、本人又は家族(親族含む)からの自主喜捨徳積み行でない天礼納行を人にさせてはならない。
四、人といざこざを起こしたり迷惑を与えてはならない。
五、天の道・人の道・世の道からはずれてはならない。
何も特別なことが示されているわけではなく、当たり前のことばかりです。ただ、多くの行者がいると当たり前のことができない行者も出てくるかもしれませんので、このように明示的に示された方がわかりやすいのは確かです。
「超人五戒度」は超人に示されたものですが、当たり前の内容ですので、超人以外の行者であっても守るべきものだと小生は考えます。
戒律といってもこのようなものですので、戒律に拘束されるとか、ましてや奴隷状態になるといったことはあり得ません。
唯一の懸念としては、天声・天意でそんなことは示されていないのに、行者が勝手にこうあるべきと思いこんでハウスルールを作る傾向があることです。たとえば、「肉や卵を食べてはならない」とか「天華の救済を批判してはならない」とかの類です。
自分がハウスルールを守るだけならまだよいのですが、他の行者にまで強要すると問題です。状況次第では、先ほどの「超人五戒度」にある「天声・天意でないことを天声・天意として人に伝えてはならない」に抵触する可能性も出てきます。
こうなってくると、自分で作ったハウスルールによって自縄自縛の状態に陥ってしまいます。ハウスルールであっても、それが人をよろこばせる上で有益であればよいのですが、本質を見失った状態で発生したハウスルールは何の役にも立たないどころか、それこそ苦の観いを刻む原因にもなりかねません。最初に書いたように、苦の観いを刻むことは一番やってはならないことなのです。