天華の救済 Q&Aを斬る!

天華の救済についてのデタラメな回答をメッタ斬りにします。

生きることの意味 | 天華の救済(法の華三法行) 福永法源は今

今回で「天華の救済法の華三法行福永法源は今」の最後の記事を取り上げることになりそうです。しばらく様子を見ていましたが、新しい記事が追加される気配はありません。

110ban.lifework7.info/?p=14

ここに来て、「天華の救済法の華三法行福永法源は今」を書いた人物の人となりがかなり見えてきました。あのブログ自体は、アダルト関連サイトへのバックリンクを確保しているだけではなく、おそらくは、それを書いた人物の考え方とは異なる天華の救済を非難しようとしているのでしょう。

まずは事実関係から見ていきましょう。『悩み苦しみがあるほど幸せになれる』には、次のように記されています。

 だから、必要な家に出会い、必要な親子の出会いから人生は始まっているのです。そして。その家に生まれた以上、人生の中で果たすべき次の3つの目的があります。

(1)出会った家を受け継いだ以上、その家を根こそぎ救わなければならない。

(2)人間生命体としての自分を、人間完成させなければならない。

(3)子孫・人類の繁栄につなげなければならない。

そして、あのブログがいうところの「信者のブログ」 というのは、おそらく下記だと思われます。

http://cxiero.wordpress.com/2013/06/10/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3/

さて、事実関係を把握するための材料が出そろったところで、具体的な内容に踏み込んでいくことにしましょう。

天華の救済法の華三法行福永法源は今」では、次のように指摘しています。

しかしこれらは人間が生まれてきた目的そのものではなく、目的に到達するための手段の一例であり、これだけが正しい、これをしなければならないというようなものではありません。

なるほど、 『悩み苦しみがあるほど幸せになれる』に書かれている人生の目的は、実は目的ではなく手段だという主張のようです。

では、何が目的かと主張しているかというと、次のように書かれています。

人間がこの世に生まれてきた目的とは、宇宙に存在するあらゆるものが、もともと一つであったことを思い出すことです。一つであることを思い出すために、自分に使命を課し、家族関係や人間関係を体験します。

宇宙に存在するあらゆるものがもともと一つであるというのは確かにそうかもしれませんが、そんなことを一生掛けて思い出すのが人生の目的だというのです。これこそまさに、目的と手段を混同しているのではないでしょうか?

そして、このようにも書いています。

また、この信者は「目的」と「使命」を混同して考えているようですが、使命とは、目的を達するための手段のひとつです。

「使命」が「目的」を達するための手段のひとつというのは違います。また、「天華天行力三法行をやっています!」の著者は、決して「目的」と「使命」を混同しているわけでもありません。

我々行者は、天から与えられた「使命」を果たすことこそが人生の「目的」なのです。いいかえれば、上記の3つの「目的」を達成する「使命」を与えられてこの世に誕生したといってもよいでしょう。

天華の救済法の華三法行福永法源は今」では、さらにこのようにも書いています。

そして、人生の目的とはこの世に生まれた時から誰でも持っているものであり、そのための手段としてある使命も、もともと自分が生まれた時に自分で決めてきています。

これを読んで、非常に傲慢だと感じたのは小生だけでしょうか? 言葉の定義としては、「使命」というのは使者に対する命令のことです。自分で使命を決めるなどというのは傲慢でしかありません。

そして、次のような事実無根な主張まで行っています。

天華の救済では、その人の目的や使命は、天と出会った人だけに天声によって示されると言いますが、これは明らかに洗脳して思考停止させるための方便です。

よほど国語力が不足しているのか、あるいは意図的にこのような主張をしているのかわかりませんが、無茶苦茶としかいいようがありません。

『悩み苦しみがあるほど幸せになれる』をはじめとした書籍や、「天華天行力三法行をやっています!」のようなブログ、そして「生と死の修成会 十文字クロス教室」などで、人生の目的については公開されています。今年の年末以降には、おそらく法主さま自ら一般の方々に向けて、この天声を開説していかれることでしょう。

決して、天と出会った人だけに示されるものではないのです。ただし、示された内容の真意については、天と出会い、行を繰り返していく中で、自ら体得していくしかありません。

どう解釈すれば、それが洗脳になるのか理解できませんが、前述したように、いちじるしく国語力が不足しているか、意図的にこのような主張をしているのであれば、もはやそこに論理的な整合性を求めても仕方がないのかもしれません。

今回取り上げた記事は、「天華の救済法の華三法行福永法源は今」の中でもとくに支離滅裂な内容でした。書き手の状態がそのまま反映されたのかもしれません。

我々行者も感情のある人間ですので、このような主張をされて気分がよいわけではありません。だからといって、感情優先で対応するのは正しい姿勢ではないでしょう。

むしろ、「天華の救済法の華三法行福永法源は今」の書き手がこのような主張をしているのは、救いを求めてのシグナルだと受け取るべきでしょう。この方を含め、地上のすべての人々に天華慈喜法行救済の手をさしのべる必要があるのです。

今回取り上げた記事は、目的と手段について改めて考える機会を与えてくれました。目的と手段を混同すると、たいてい物事はうまくいきません。目的がはっきり見えていれば、それを達成するための手段については柔軟な扱いができるのです。

人生の目的については前述の通りですが、天華の救済の目的についても改めて書き留めておくことにします。2001年1月21日の天声では、次のように示されています。

天華の救済地は『天華五聖』生活を行い『天五教(天五律)』『天華四法』を実践する聖地である。

この聖地を実現することこそが天華の救済の目的といえます。ついつい、法行者三万人誕生とか、聖人1000人誕生とか、赤い糸1万家とか、そういったことばかりに目が行きがちですが、それらはすべて手段にすぎないのです。